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宇賀野長野家
山内一豊は、天文十四年(1545)に、尾張国守護代織田伊勢守の家老山内盛豊の三男として生まれた。守護代家の織田家は二家に分かれて勢力を競っており、上四郡を盛豊が仕えた伊勢守家が支配し、下四郡を信長の父信秀が仕える大和守家が支配していた。一豊の父盛豊は弘治三年(1557)にその居城であった黒田城(一宮市)で織田信長の攻撃に合い、討ち死にした。その後、一豊一家は流浪の生活となり、尾張の浅井氏、美濃の前野氏、牧村氏へ寄寓し、永禄三年(1560)に米原市宇賀野の長野家に落ち着くことになった。
長野家は代々この地に伝わる土豪で、歌人在原業平の子孫であると伝えられている。屋敷の庭には滾々と湧き出たばかりの澄んだ水が流れ、四季折々美しい花が咲いていたという。中でも、初夏に白紫の杜若(かきつばた)が清流の中で咲き乱れる眺めは見事だったといわれている。一豊の母法秀院はその屋敷の一隅で質素な生活を送り、近在の子女に裁縫や行儀作法を教えていた。その娘たちの中に隣村の若宮喜助友輿の娘千代(見性院)がおり、法秀院はその利発さを見初め、元服した一豊の嫁に推したという。
法秀院が没した後、長野家では江戸時代を通じて法秀院の墓所を管理し、命日にあたる一七日には、霊前で読経を行っていた。
長野家には、法秀院の法号書のほか、一豊が使用したといわれる轡、黄金が入っていたという鏡箱やふくさ、法秀院がまな板代わりに使用した一升枡(武佐枡京枡の八合)が所蔵されている。
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